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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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第二次世界大戦前夜

 共産革命後のモスクワで劇場やホテルを設計した建築家ブルーノ・タウトが1933年(昭和8年)2月、ベルリンに帰ってみると、ヒトラーの新政権が誕生していた。ソ連との関係を理由に逮捕される危険を感じたタウトは、日本インターナショナル建築会なる組織から招待状が来ていた事を思い出し、急遽、シベリア鉄道で東をめざした。ウラジオストックから海路、敦賀に到着したのが5月。この後2年半、高崎の少林山に落ちつく。結局、1939年(昭和14年)にトルコまでもどったところでタウトは客死した。

 この頃、ライプチッヒのハイゼンベルクの研究室に二人の日本人がいた。一人は、1933年(昭和8年)に渡欧してパリのド・ブロイのもとで学位を取得した後、ライプチッヒに移った渡辺慧(さとし、1910-1993)、もう一人は、1937年(昭和12年)ボーア来日の一か月後に渡独した朝永である。ライプチッヒで朝永は、同級生だった湯川の中間子論を数学的に確かなものにしようとし、この中で、かつて経験した事のない難問にぶつかった。これを回避しようとする努力が後に「くりこみ理論」を産む。

 朝永の滞独日記を読むかぎり、「非アーリア・非ユダヤの友人」として、親衛隊すらそれなりの敬意をもって日本人をあつかったようである。実際、ヒムラーは「日本人の祖先はアイヌ人で、アイヌ人はアーリア系という自らの宣伝を本気で信じていたらしく、カナとルーン文字の対応を研究したりしていた! しかし「反アーリア系ユダヤ人」であるアインシュタインはこれほど好運ではなかった。ナチスが政権をにぎった直後に家宅捜索をうけたアインシュタインは、米国プリンストンへと移住した。朝永達の滞在先のハイゼンベルク自身、深刻な事態におちいった経験を持っていた。1932年(昭和7年)ノーベル賞受賞後、ナチス主催の会での講演を断ったことから親衛隊に敵視され、激しい言葉を浴びせられた。結局、母親が縁故をたどってヒムラーに手紙を書く。ヒムラーのとりなしで攻撃は止んだが、言動に気をつけるように忠告されていた。

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