生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

書籍関連・映画のご紹介

コラム-デルブリュックの進化論的認識論

 第2次大戦中にデルブリュックはイタリアからやはり米国に来ていた微生物学者サルバドール・ルリアと出会い、1946年(昭和21年)に大腸菌に感染するウイルス、ファージの遺伝現象を解明。1969年(昭和44年)、弟子とも言うべきジェームズ・ワトソンたちに7年遅れて、ノーベル医学・生理学賞を受賞した(当時63才)。共同受賞者のルリアやアルフレッド・ハーシーが受賞を素直に喜んだのとは対照的に、デルブリュックの心は晴れなかった。1953年(昭和28年)、ワトソンからの手紙をうけとり、DNAの二重らせん構造を確信するものの、「なんだ、つまらない化学現象にすぎなかったのか」。デルブリュックはあくまでも物理学者の心を持ち、“化学”は好きではないものを象徴する言葉だった。生命現象が分子論に還元されたことを象徴するDNA二重らせん構造は、デルブリュックが心底から解明を望んだ相補性とは全く無縁だったのである。

 デルブリュックはいつもきわめて明確に意思表示した。セミナーを聞けば「今まで聞いた中で最低、最初からやり直せ」と酷評、出発点の大前提には「そんなことは全然信じないね」と挑戦した。セミナー室があふれそうになると、ドアの前に立ちはだかって「オマエは入れ、オマエはダメ」と整理した。そんな彼が本当に大事だと信じる問題意識、相補性についてだけは、ボーア以外には、きわめて近しい友達にすら語らなかった。

 家庭でのデルブリュックはいつも新しいゲームを考えては子どもたちと遊ぶパパだった。ただしルールは必ず彼が決定。ホーム・パーティで全員が演じた劇では、大学教授(デルブリュック)が友人を募集し、ライオン、ネズミ……が応募、結局、末娘の可愛がっていたぬいぐるみの子豚が選ばれた。1976年(昭和51年)カリフォルニア工科大学の卒業生に向けた講演の題を、デルブリュック(70才前後)は『豚と私』とした。「応用なんかどうでもよい。私は中毒患者のようにささやかな研究にしがみついている。自分の仕組んだ実験に自然がどう答えてくれるか、それだけが見たくて朝早く研究室に急ぐ。幸運と根気さえあれば大発見ができるかもしれない、アメリカ大陸の発見に比べられるような……これから迎える困難な長い日々に正気を保ちたかったら、豚を友達にしなさい。犬は人を見上げ、猫は見下す。しかし豚は君たちを見上げも見下げもしない」。

 最後の著作『Mind from Matter?』の中で、デルブリュックは「人間の認識は日常の範囲内できわめてよく自然界と対応するよう設計されている」。ヴィトゲンシュタインは『論考』の中で、両者の関係を絶対と見なし、言語で記述できないような自然現象は存在しないとまで極論した(言語ゲーム)。「しかし、非日常的な現象、たとえば量子力学が扱う極微の世界、あるいはゲーデルの不完全性定理が対象とする無限の世界に対するとき、人間の認識は限界に達し、対象から離反していく」とデルブリュックは続ける。認識が自然界を反映する事実の拠りどころとして、コンラート・ローレンツの“動物行動の自然選択”、つまり、得な認識形態を持つ生物が生き延びてきたと説明した。

 デルブリュックの説明が正しかったとしても、疑問は残る。結局、物理学を相補うもの、物理学に欠けているものとはいったい、何だったのか? 人間の常識ではとらえられないものの1つが“生命”なのか? デルブリュックは、“情報”という概念にきわめて無関心だったようだ。『Mind from Matter?』の中でもこの言葉は使われていない。それともこれもまたデルブリュック流のポーズだったのだろうか。

→1936年11月6日国家社会主義ドイツ国ベルリン自由研究・研究所グループのグラウエ博士からベルリン大教
官協会へ宛てた文書(ドイツ・ケルン大学遺伝学研究所のミュラー=ヒル名誉教授のご厚意による)「今日、学生を教える者が持たねばならない政治的な資質がデルブリュックに欠けていることは疑いようがない」「長い目で見れば、彼を、独りよがりが言えないような環境、すなわち完全無欠な国家社会主義的研究機関に置くべきであろう」デルブリュックは何度かナチス党の政治トレーニングコースに参加しながらも無事に終了することができず、教授資格を得られなかった。うち一回は、ナチス党の党歌の意味不明瞭な点について質問した事が原因だった。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9   10 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ