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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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光と生命

 相補性の概念をボーアは“物理学と生物学”の関係にもあてはめようとした。1932年(昭和7年)8月、光療法国際会議がコペンハーゲンで開催された時、「光と命」という題で講演し、「生命現象には、通常の物理学ではとらえられない、物理学の範囲を越えた“何か”が隠されている」と議論した。「光を照らして生命を調べようする事は、量子力学における観測以上に生命に影響を与えざるを得ない」。だからこのやり方で生命を理解する事はできないというのだ。デンマークなまりが強いボーアの英語、聴衆のお医者さん達は量子力学が何かも理解していなかった。講演中に水圧式の演台が誤動してボーアの姿が見えなくなるハプニングまで起こった。しかし聴衆の中にボーアの研究所に出入りしていたドイツ人物理学者マックス・デルブリュック(1906-1981、奇しくも朝永、湯川と同年齢、当時26才前後)がいた事から生命科学は戦後、大きな転換をむかえることになる。「残されている講演録の内容ほどボーアは慎重ではなかった」とデルブリュック。ひとつまちがえば“生気論”ともとられかねないような主張を危険をかえりみずに展開するボーアの姿にデルブリュックは感動した。この議論を自分への個人的な挑戦とうけとめ、人生をかけた研究をデルブリュックは決意する。

 同様の内容が東大でも講演された。聴衆の中でその重要性を本当に理解できたのは、おそらく仁科だけだっただろう。仁科は「光と生命」講演を聞いてはいないが、講演録は読んでいたはずだ。東大での講演の後、ボーア夫妻は理研、京大、阪大、東北大などをまわった。東北大訪問の前には日光に立ち寄り、金谷ホテルに二晩、滞在している。京都の都ホテルに滞中のボーアに仁科は湯川をひきあわせた。中間子の存在を主張する湯川に、ボーアは「あなたはそんなに新粒子をつくりたいのか」と素っ気なかった。しかし帰路に着いたボーアの航海中に米国のアンダーソンらが宇宙線の中に新粒子を観測したというニュースがとびこむ。湯川はこれを自分が予想した中間子だと主張したが、実はそうではなかった。

 1931年(昭和6年)に総合大学になったばかりの大阪帝国大学では、初代総長に長岡半太郎をむかえていた。長岡は、八木秀次(前号参照)を物理学主任教授に任命するとともに、新進気鋭の菊池正士(1902-1974)を東大から招へいして原子核研究をすすめた。八木に認められた湯川もこのグループに所属する事になる。当時、東大も京大も核物理学を研究する環境にはなく、東京の理研と阪大が日本における革命の地となった。この革命は長岡や仁科の助力なしにはおこらなかったのである。仁科は、ボーアが築いた自由な雰囲気“コペンハーゲン・スピリット”を理研に再現しようとした。1933年(昭和8年)、大阪帝大講師の湯川が中間子論文を書いたきっかけは、八木の一喝「大学をでて5年になるのに論文の一つもかけないのか!」だったとされる。一方、本人は、澄子夫人の勧めによるとだけ書き残している。

→ボーアの「光と生命」の講演録の一部。[Bohr N.,Light and Life,1933,Nature,131,p458(Copyright:Macmillan Magazines Ltd)]ボーアもまた、後にシュレーディンガーが議論するように生命とそのまわりとの境界に特別な関心を持っていた(点線)。

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