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生命情報科学の源流

第3回 1937年:仁科芳雄とニールス・ボーア

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グリーン・パンフレット

 1932年(昭和7年)、デルブリュックはリーゼ・マイトナー(オットー・ハーンとともに所長)の助手としてベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所へと赴任した。その本当の理由が「生物学研究所がすぐ近くにあるという地の利」であることをボーアにだけは伝えている。母親宅で生物学の勉強会を開くとともに、生物学研究所の生化学者オットー・ワ-ルブルグから光合成の面白さを学び、光生理学が当初の関心となる。「光と生命」というボーアの演題は、光こそが生命を理解する鍵である事をデルブリュックに示していた。そしてX線もまた光なのである。

 1927年(昭和2年)、X線によりハエが突然変異をおこす事を発見した米国のハーマン・マラー(後1946年にノーベル医学・生理学賞受賞)が、脳研究所のニコライ・ティモフィエフ=レソフスキーとの研究のためにベルリンへやって来た。やがてレソフスキー自身がデルブリュックのセミナーに参加するようになり、こうして1935年(昭和10年)、デルブリュック、レソフキー、ツィンマーの“グリーン・パンフレット”論文が完成する。デルブリュックは、ショウジョウバエの突然変異を遺伝子によるX線の散乱現象ととらえた。原子核の大きさをどうやって測定するか?—答、原子核を標的として電子をぶつけ、その“散乱”状況から標的の大きさを推定する。突然変異率を散乱確率と見なす事により、遺伝子は高分子ぐらいの大きさであるとデルブリュックは結論した。ほとんど誰も読まない雑誌に発表したこの論文の別刷(表紙の色からグリーン・パンフレット)を、デルブリュックは大量に発送した。その一つが、シュレーディンガー(1887-1961、ボーアの二才年下)の手にたどりつく。1927年(昭和2年)にベルリン大学教授に就任後、シュレーディンガーは1933年(昭和8年)にディラックとともに、そしてハイゼンベルクに一年遅れてノーベル賞を受賞していた。この三人が量子力学を完成したのである。ベルリンでシュレーディンガーとデルブリュックは知り合いだったが、グリーン・パンフレットがシュレーディンガーの手にわたった経緯をデルブリュックは後に「覚えていない」。

→1936年(昭和11年)、コペンハーゲンの理論物理学研究所で開催された国際会議の際の撮影。左からボーア、マックス・ボルン、デルブリュック。この頃、同研究所ではボーアが主催する会議がひんぱんに開催され、若手を中心に多くの物理学者たちがヨーロッパ中から集まっていた。

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