生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

書籍関連・映画のご紹介

文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長鈴木 理

 1945年(昭和20年)8月、日本は連合国に無条件降伏した。戦争の終結により、双方の側の研究者たちの戦時中の努力と友情が明らかになるとともに、戦時研究の中から、やがて戦後の生命科学の誕生へと続く、発展の芽が育っていた。

1945年(昭和20年)9月4日。東京湾の戦艦ミズーリ上で行われた、日本の降伏文書への調印。日本の全権は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長。テーブル右がマッカーサー元帥。マッカーサーは最後に「われわれは相互不信、悪意或いは憎悪の精神をもってここに集まったのではなく、むしろ戦勝国もまた敗戦国もともに、われわれが関与せんとしている神聖なる目的に添い得るただ一つのより高き威厳に向って立ち至ることこそ、われわれの意図するところである」と演説した。

The last one to go.

 1945年(昭和20年)8月30日、厚木飛行場に連合国占領軍司令官のマッカーサー元帥がおりたち、ここに日本の戦後が始まった。元帥が厚木で日本兵に狙撃されて死亡したとする不思議な伝説が静かに拡がったが、それは正史ではない。東京湾を囲む三浦半島・油壺の東大の臨海実験施設は、特殊潜航艇の基地として1945年(昭和20年)1月に日本海軍に接収され、施設に勤務する細胞生理学者、團勝磨(40歳)の自宅にも海軍陸戦隊が居候していた。とは言っても團は無給、武蔵高校で教鞭をとって生計をたてていた。もし日本が降伏していなかったなら、1945年(昭和20年)内に九州南部に、翌年には九十九里浜に米軍が上陸するはずだった(オリンピック作戦)。8月29日、日本の降伏を調印するために浦賀水道から東京湾に入る米戦艦ミズーリの巨体を團は三崎から眺めた。「三崎から平塚の沖合いまで見渡す限りの米軍艦。一列に並んで砲を全て陸にむけていた。5分置きに米軍機が湾の上空を偵察。油壺には43隻の特殊潜航艇がある。しかし、よく見てみると、砲塔の上では上半身裸の水兵が日光浴していた」。

 勝磨が生まれた團家は、経済人や芸術家を輩出した名家。東大で動物学を学んだ勝磨(25歳)は1930年(昭和5年)に龍田丸の一等船客として太平洋を渡った。ペンシルバニア大学で細胞生理学者ハイルブラン教授の下に学んでいた1932年(昭和7年)、五・一五事件直前の日本で、“三井の大番頭”だった父、琢磨が右翼“血盟団”の青年に暗殺された。米国の新聞に印刷された“ゴロウ・ヒシヌマ”という犯人の名を勝磨は見つめた。この頃、研究室に入ってきた、6歳年下のジーン・クラークと知り合う。ハイルブラン研究室の一同と、夏休みをウッズホールの臨海実験所で過ごした頃から、二人の間に愛情がめばえる。二人の婚約は、しかし日本側には知らされなかった。勝磨はMIT講師の話を断って、1934年(昭和9年)秋に帰国、「無給副手として三崎臨海実験所に勤務」との辞令を受け取った。

 二・二六事件が起こった1936年(昭和11年)に、勝磨は再渡米、翌年、ジーン夫人を連れて帰国した。夫妻が東回りでまずヨーロッパに渡ると、日独伊防共協定が締結されて、ベルリン市街は三国の国旗で染まった。ヨーロッパ1の臨海実験所があるナポリに4か月滞在したが、街は、ムッソリーニ率いるファシスト党の宣伝ポスターで埋まっていた。團夫婦はコンテ・ビアンカマノ号でナポリから上海へと向かい、上海から日本船で神戸に着いた。團は「東回りはひとつの方法だった。サンフランシスコから横浜に直接着いていたら、多少、恐縮しないでもなかったろう。みんなが裸のインド洋を渡ると、衣服とはいかに文化的なものかが痛感される」。一方、ジーン夫人は「臨海実験所は世界中、どこも同じ。ウッズホールから三崎に移っただけ」。

 日米開戦前夜の日本がアメリカ人に住みやすいはずがない。来日前、心配する團にジーンは「刑務所に入ると思えばいいんでしょう」といってとりあわなかった。海軍の要衝、三浦半島に住むジーン夫人を、「日本の市民権を持っているしスパイのおそれもない」と庇ったのは、意外にも夫人を見張る刑事だった。二人めの子どもを生む直前のジーン夫人に團は、「今の日本は戦争に向かっているから、列の最後から黙って付いて行こう。戦争が終われば、この列は“回れ右”するかもしれない」。いつも一言ある夫人は、黙って肯いた。

1954年(昭和29年)頃、三崎臨海実験所実験室での團夫妻。この頃團は、発足し立ての東京都立大学の教授となっていた。68歳で都立大学の8年間の学長の任を終え、さらに引退後も毎週欠かさず、この実験所に足を運び、研究を続けた。

 1945年(昭和20年)8月30日の午後、実験所を占領するために米第十一空輸部隊の少佐と副官、それに広島弁の通訳がやってきた。双方の間に緊迫した空気が流れる中、團は米少佐に「ここは臨海実験所で戦争とは無関係」と説明したが、目前に特殊潜航艇が係留されているのだから説得力はない。かえって流暢な英語を不審がられた。60余名の本体がやってくると聞いた團は、とっさに、日本海軍が残したハトロン紙に墨で英文のメッセージを残してドアに貼った。「ここは60年以上の歴史を持つ臨海実験所です。兵器や軍事施設なら破壊するがよい。しかし、文化施設は守ってほしい。そうして私達が平和的な研究を続ける可能性を残してほしい」。末尾には“The last one to go.” (最後に去る者)の文字。

 この貼り紙は占領本体の米海軍第二潜水艦隊を通じてウッズホールに届けられ、これを12月、タイム誌が「ゴート族へのアピール」として紹介した。戦争に勝った自国の軍隊を、コンスタンチノープルを脅かした蛮族ゴート人になぞらえた米ジャーナリストの気骨に目をみはる。この記事で初めて、米国人科学者達は、團の無事を知った。

終戦時に團勝磨が三崎に残したメッセージは、現在はウッズホール臨海実験所図書館のロビーに展示されている。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ