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生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

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デルブリュックのアメリカ

 ドイツの敗戦をデルブリュック(38歳)はアメリカで迎えた。兄はソ連軍の捕虜収容所で死亡、義兄はナチスに殺害され、17人の甥や姪が父親を失っていた。デルブリュックはヴァンダービルト大学の物理学講師に過ぎず(その給料も大学ではなくロックフェラー財団が支給)、生活は楽ではなかったが、すでに彼を取り巻くグループの指導者(教祖)になっていた。

 1937年(昭和12年)に渡米したデルブリュックの目的は、カリフォルニア工大のトーマス・モーガンのグループでショウジョウバエ遺伝学を学ぶ事だった。しかし、独特の発想や用語に悩まされる。その地下室でバクテリアにとりつくウイルス、バクテリオ・ファージを研究する人物に出会う。自ら、ロサンジェルス市の下水から大腸菌にとりつくファージを単離し、新天地での研究がスタートした。1939年(昭和14年)9月までには、「ファージの増殖は遺伝子の再生産と同じ」と確信するに至る。しかし、彼の確信が共有されるためには、時間が必要だった。1947年(昭和22年)にわが国で出版された本はデルブリュックの主張を紹介しながらも「この類似が本質的なものか否かは不明」。しかし、ロックフェラー財団への要望書にモーガンが「デルブリュックは、生物学と物理学の境界領域に数理物理学を適用できる稀な人物」と書いてくれた事から、同財団の仲介でデルブリュックはヴァンダービルト大学・物理学講師の職を得た。

 デルブリュック(33歳)がイタリア系移民のサルバドール・ルリア(28歳)に出会ったのは、1940年(昭和15年)12月、フィラデルフィアの物理学会での事だった。「いっしょに食事をしたのは英才として名高いパウリだったから冷や汗をかいた。デルブリュックはボーアのところでパウリと知り合いになっていて、親しそうだったけれど」とルリア。

デルブリュックの死後出版された著書(Blackwell Scientific Publications, 1986年)の表紙。戦後1946年(昭和21年)にカリフォルニア工大教授になった頃の写真。中央に座っているのはデルブリュックではなく、研究員だったガンサー・ステント。その右隣の長身がデルブリュックである。この頃デルブリュックは、希望に満ちて「ここが新しいマンチェスターになるのです」とボーアに書き送っている。ボーアはマンチェスターのラザフォードの下で、前期量子論の中核となる原子模型を確立した。しかし、デルブリュックは独立した教授で、ラザフォードに相当する人物がパサデナにいたようには思えないから奇妙である。

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