生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

書籍関連・映画のご紹介

ファージ・グループの誕生

 ルリアとデルブリュックはフィラデルフィアで意気投合し、ここに「ファージ・グループ」(あるいはファージ“教会”)の種が蒔かれた。“教祖”だったデルブリュックとは対照的に、「ある限度を超えて学生達と個人的に接する事はできなかった」とルリア。政治から距離を置いたデルブリュックとは対照的に、ルリアは進歩的社会主義者を自称した。この二人の性格を奇妙に併せ持ったのが、ルリアの最初の学生ジェームズ・ワトソンだった。

 1943年(昭和18年)、ルリアとデルブリュックは「揺らぎ論文」を発表し、大腸菌はおろか、ファージすら遺伝子を持つ事を明らかにした。それだけではない。ランダムに起こった遺伝子突然変異の中から環境に適合したものが選択される事を結論したのである。ラマルク以来議論されてきた自然選択の機構についての最終回答だったと言ってよい。デルブリュックが大腸菌の遺伝にしか興味がなく、ファージをこれを解明するための手段と考えていたのに対して、ルリアはファージの遺伝子そのものに興味を持っていた。

 きっかけを作ったのはデルブリュックだった。X線や紫外線(つまりは光)をファージに照射するとファージは死んで感染しなくなる。デルブリュック達が“死亡率”を計算したところ、予想よりもずっと低かった。どうやって生き延びるのだろう? この話を聞いたルリアは、インディアナ大学の講師になったばかりで、おそらくイタリアではスロットマシンを見た事はなかっただろう。職員懇親のダンス・パーティーで同僚がスロットマシンの大当たりをしたのを見た時、別々の損傷を受けた二つのファージが同時に大腸菌に感染すると、組み換えにより正常のファージへと“生き返る” (カードがそろってジャックポット、つまり“大当たり”が起こる)のではとルリアは気づいた。ルリアの発想が本質的だと直感したデルブリュックが数理統計理論を使って解析し、こうして二人は先の論文を発表したのである。

 この頃、シカゴのフェルミ宅で夕食をご馳走になったルリアの無邪気な質問「戦争が終わった時、物理学界には何か大発見のニュースが入るでしょうか」に対して、フェルミは「たぶん、そうなると思う」。シカゴ大学のスタジウム地下では、フェルミ達が完成した人類初の原子炉が稼動していたのである。“ヒトラーの圧力”は、こうして連合国にとんでもない力を与えていた。

 最初の大学院生、ワトソンがルリアのところに来たのは1947年(昭和22年)、ナッシュビルでファージ・グループの最初の“正式”会合が開かれた年だった。ワトソンの研究テーマは、損傷を与える光をX線から紫外線に変更して、ルリアの実験を繰り返す事だった。1946年(昭和21年)末、すでにデルブリュックはカリフォルニア工大教授としてパサデナに戻っていた。

1941年(昭和16年)、コールド・スプリング・ハーバーでのルリア(下)とデルブリュック(上)。コールド・スプリング・ハーバーはファ−ジ教会の布教場所だった。ルリアとデルブリュックは、偶然、アメリカで出会ったのではない。ルリアの経歴をたどると、二人は出会うべくして出会ったことがわかる。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ