大サイクロトロンの東京湾投棄
1945年(昭和20年)11月20日、東京の理化学研究所に占領軍司令部(GHQ)のオハーン少佐らが到着、仁科研究室を封印した。そして24日早朝、「大小サイクロトロンおよび原子核、宇宙線研究の主要機器を撤去する」。仁科は必死に抵抗した。それ以前、一度は「サイクロトロンの医学・生物学関連の使用」の許可をGHQから得ていたからである。しかし仁科の目前で、サイクロトロンは切断、解体された。2台のブルドーザーが裏門とその付近の塀を壊し、解体された大サイクロトロンをクレーンで運んだ。その残骸は今も東京湾の最深部に眠っている。仁科の落胆は深かった。
朝永振一郎が勤める大塚の東京文理大の玄関にも米軍のジープが止まった。応対に出た人たちは蒼くなったが、広島での原爆被害調査のために来日した物理学者のフィリップ・モリソン、長崎への原爆投下の際に嵯峨根・東大教授あてのメッセージを観測管に入れた一人だった。
仁科と朝永は「物理学の研究が困難なら生物学に転向しよう」と真剣に議論した。二人が選んだテーマが光合成の研究だった事は、偶然ではない。
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1945年(昭和20年)11月20日、理化学研究所にやってきたアメリカ軍将校に抗議する仁科芳雄。 |
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同年11月24日、切断された大サイクロトロンは東京湾に投棄された。同年12月、マッカーサーにあてた書簡の中で仁科は「サイクロトロンとともに私たちの希望は太平洋に深く沈んでしまいました」と記した。 |
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