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生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

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シドニーの夜明け

 オーストラリアのシドニーが直接の戦火にさらされたのは、1942年(昭和17年)5月、伊号潜水艦隊が放った3隻の特殊潜航艇が湾内に停泊する連合軍艦船をねらった時だけだった。シドニー病院では、理事長ノーマン・ポールが終戦を喜んでいた。兼松江商の設立者、兼松房治郎(1845−1913)は、戦前、オーストラリアとの羊毛や米の交易で富を築いた。両国の文化交流を深める目的で、兼松江商は1933年(昭和8年)、シドニー病院に寄付し、兼松記念病理学研究所が設立された。1940年代前半、この研究所に、生理学に大きな足跡を残した3人の研究者、エクルス、カッツ、クフラーが集まった。1944年(昭和19年)にエクルスがニュージーランドに移ると、所長はしばらく空席となり、病院理事長のポールは、「研究所の名前から日本人の名を削除しろ」という圧力と戦わねばならなかった。

1933年(昭和8年)シドニー病院内に設立された当時の兼松記念病理学研究所。右下囲み写真は、研究所に掲げられた兼松家の家紋。シドニー病院の縮小に伴い、研究所は現在プリンス・アルフレッド病院に移管されたが、この紋章を抱く壁だけは、今もシドニー病院に保存されている。

 オーストラリア生まれのジョン・エクルス(1945年には43歳前後)は、戦前、オックスフォード大学のシェリントンの下で神経興奮の機構を研究した。アラン・ホジキンとアンドリュー・ハクスリーの研究により神経細胞が興奮する際の電気的なメカニズムが明らかにされると、次の問題は、神経細胞の間で、次の神経へと信号がどう伝わるかだった。信号の本体として化学的な伝達物質があるという考え方に与したのは、オーストリア在住のドイツ人オットー・レービ。カエルの心臓を興奮あるいは沈静化する二種の神経を研究し、沈静化する神経を興奮させた時に心臓周囲から取った液には、別の心臓を沈静化する効果が残されている事を発見したのである。英国の薬理学者ヘンリー・デールと協力して、この液に含まれる物質がアセチルコリンであることを突き止め、1936年(昭和11年)に二人はノーベル医学・生理学賞を受賞した。これはドイツがオーストリアを併合する2年前。併合の翌日、ユダヤ人だったレービは、29年間務めたグラーツ大学教授職を解任され、投獄された。2か月後に釈放された時には、まだスウェーデンの銀行にあったノーベル賞・賞金をナチス党に献金して即座に国外へ退去するよう強制された。

 レービ達の研究により化学説を信じた者も多かったが、エクルスは“神経細胞間にも電気的な信号が伝わる”とする電気説を信じ続けた。「レービ達の発見は例外。神経伝達のような早い現象を分子の拡散的移動で制御できるはずがない」。ライプチッヒ大学医学部を卒業したバーナード・カッツ(1945年には34歳前後)が、1935年(昭和10年)、英ハーウィッチ港に到着したとき、ユダヤ人のカッツにはパスポートが無かった。何とか上陸を許可された3か月後、ケンブリッジで開かれた会で、エクルスとデールの激しい論戦をリングサイドで“観戦”した。「まだ渡英したばかりでトランスミッター(伝達物質)の意味がわからず、“無線送信機”(同じくトランスミッター)とどんな関係があるのか、混乱した」とカッツ。

 結局、カッツはロンドン大学ユニバーシティー校のヒルの下で神経細胞の電気的刺激機構を研究し、1938年(昭和13年)に学位取得、1937年(昭和12年)に兼松記念病理学研究所の第二代所長となっていたエクルスの誘いに応じてシドニーに移った。亡命したとはいえ、ドイツ生まれのカッツにとって、ドイツとの戦争を目前にしたロンドンは、住みやすい場所ではなかった。もう一人、エクルス達に合流したのが、ハンガリー生まれのステファン・クフラー(1945年には32歳前後)。1937年(昭和12年)にウィーン大学医学部を卒業したクフラーはテニスの欧州チャンピオン、4分の1ユダヤ人で社会主義者、反ナチスだったからヨーロッパを離れた。

左から、ジョン・エクルス、バーナード・カッツ、ステファン・クフラー。3人が並んで歩く写真には、大柄なエクルスとカッツの隣に、小柄なクフラーが写っている。

 手先の器用なクフラーは、単一の神経細胞と筋細胞からなる実験試料を作ってみせて、他の二人を驚かせた。1941年(昭和16年)12月17日に投稿したエクルスの論文は、10日ほど前に勃発した太平洋戦争のため、著者校正を経ずに印刷された。カッツやクフラーの論文も同様の運命を辿る。エクルスは、電気信号が伝わった後で化学物質が伝達されると考えたが、実験を重ねる中、カッツとクフラーは化学説に傾いた。ニュージーランドに移ったエクルスは、1946年(昭和21年)、大学の職員クラブでウィーンから亡命した哲学者カール・ポパーに出会う。エクルスが、“化学説”対“電気説”の長い論争の負けつつある側にいる事をため息まじりに話すと、ポパーは逆に興奮した。「科学のすばらしさは、宗教やマルキシズムとは違って、間違っていると反証できる論理形式を持っていることだ。だれもあなたの実験結果そのものに問題があるとは言っていない。問題はその解釈だ。別の人がやる前に、自分でその仮説を反証して葬ったほうが良い」。

 レーダー担当将校としてオーストラリア空軍に召集されていたカッツは、この頃、除隊してロンドンへ戻った。すでにクフラーは1945年(昭和20年)に米国のジョンズ・ホプキンス大学へと移っていた。ポパーの忠告に従ったエクルスは、1963年(昭和38年)にホジキン、ハクスリーと共にノーベル医学・生理学賞を受賞。この路線をさらに発展させてカッツがノーベル医学・生理学賞を受賞したのは1970年(昭和45年)。エクルスが当初信じたような電気信号による伝達も、特殊な神経細胞間ではおこることもわかった。一方、クフラーが移ったハーバード大学の研究室からはヒューベルとウィーゼルの二人のノーベル賞受賞者が育っていく。この時代のハーバードを経験した大塚正徳は、シドニーでのエクルス、カッツ、クフラーの出会いを「彗星の三重衝突」と表現している。

ウイーン大学でウイーン学派の哲学の息吹にふれて哲学に転向したカール・ポパーは、マルクス主義や精神分析と科学の違いを反証可能性と考え、科学であることの必要条件として反証可能性を挙げた。その発端は、1919年(大正8年)、エディントン率いる観測隊がアインシュタインの相対性理論を検証すべく、皆既日食の際に背後の星からの光が太陽の重力によって曲がるか否かを判定しようとした事にある。アインシュタインの相対性理論が検証された時、ポパーも興奮し、相対性理論が宗教や“主義”とは異なる事を悟った。しかし、今では、エディントン達の観測には多くの誤差がふくまれていた事が知られている。エディントン自身は“事実が理論を判定する”と単純に考えていたわけではなく、「事実というものは、疑ってみなければならない。それが理論によって裏付けられるまではね」という有名な言葉を残している。一方、アインシュタインは「もしエディントン達の観測が相対性理論の予想に一致しなかったら、どうするつもりだったか?」との質問に対して「まあ、ご苦労さまってところかな」。物理学においてすら反証が容易ではない事は、アインシュタインが量子力学におけるボーア達の解釈を一生、受け入れなかった事にも反映されている。“確信”は“事実”を超えるのである。

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