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生命情報科学の源流

第7回 1945年:太平洋の夜明け—東京、シドニー、カリフォルニア

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光合成:生命の原点

 ドイツでは、ユダヤ人の教授が堂々と戦中、戦後を生き延びていた。“呼吸酵素(チトクローム)の発見”により1931年(昭和6年)にノーベル医学・生理学賞を受賞したオットー・ワールブルグである(1945年には62歳前後)。ビタミンB2やNADPを単離して生化学の黄金時代を築いたワールブルグは、ロックフェラー財団からの援助の下に戦前に完成したカイザー・ヴィルヘルム細胞生理学研究所の所長だった。ワールブルグが直接、関与する事はなかったものの、彼の研究所と隣の物理学研究所の間には“ウイルス・ハウス”が造られ、ドイツ最高秘密計画の一つだった原子爆弾(原子炉?)研究が進行した。ベルリンをソ連軍が占領すると、ジューコフ元帥に無事、保護されたのである。

 ユダヤ人のワールブルグが生き延びた理由は、第一次世界大戦従軍以来の軍関係の人脈と、なによりも、ヒトラーに次ぐナンバー2、国家元帥ゲーリングの絶大な支持があったためとされる。「誰がユダヤ人かは自分が決める」と豪語したゲーリングは、ワールブルグを「4分の1ユダヤ人」と“軽め”に認定した。ワールブルグがガンの治療法の開発を約束したからだとされる。ワールブルグは1926年(昭和元年)にガン細胞の乳酸発酵レベルが高い事を報告していたが、ガンの完全な治癒は分子生物学の現代でも可能にはなっていない。

 ワールブルグの父は高名な物理学者で物理工学研究所の所長、その官舎にはネルンストやアインシュタインが出入りした。ワールブルグはベルリン大学のフィッシャーの下で有機化学を勉強しながら、物理学や生物学をも含めた幅広い興味と知識を身につけていった。酵素にも強い興味を持つフィッシャーは酵素反応を「鍵と鍵穴」と表現したが、この言葉は今も分子生物学に受け継がれている。1914年(大正3年)にカイザー・ヴィルヘルム生物学研究所が設立されるとワールブルグは終身研究員となり、ネルンストから熱力学を学びながら電子伝達の酸化還元電位を研究した。ワールブルグは、父親の光電効果の量子効率の研究を発展させて、クロレラの光合成の効率がさらに高い事を議論した。光合成とは、光が持つ(自由)エネルギーを別のエネルギー形態へと変換する過程で、地球上の全ての生命現象の出発点である。1931年(昭和6年)、ロックフェラー財団の援助を得てワールブルグのためのカイザー・ヴィルヘルム細胞生理学研究所が完成。この頃、ロックフェラー財団はケンブリッジのバナールのためにも研究所を造ろうとしたが、大学の合意が得られなかった。

 1932年(昭和7年)、マックス・デルブリュックがカイザー・ヴィルヘルム化学研究所にリーゼ・マイトナーの助手として赴任した時、この職を選んだ理由がワールブルグの研究所が近いという立地条件にある事をボーアに告げている。デルブリュックは自宅で生物学の勉強会を開くとともに、ワ−ルブルグから光合成の面白さを学んだ。デルブリュックにとって、光合成とはボーアが言う「光と生命」の象徴だったに違いない。分子生物学に自分の求めたものがないと知ったデルブリュックは、早くも1953年(昭和28年)頃、大腸菌やファージの研究から離れ、ヒゲカビの光反応の研究へと移った。光合成が特別だったのは、仁科にとっても同じ事。1937年(昭和12年)に小サイクロトロンが完成した直後から仁科はトレーサー(放射性同位元素)を使って光合成阻害剤の作動機構を解明しようとしたが、これは東大での講義でボーアが議論した研究テーマでもあった。

オットー・ワールブルグ。個人の邸宅にしか泊まらず、ホテルなどには宿泊しない、自宅に乗馬場を持ち、旅行先でも乗馬を欠かせないといった“奇行”から、戦後も来日は実現しなかった。生涯、結婚せず、第一次世界大戦以来の従者と暮らした事から、ワールブルグを三島由紀夫と比較した評伝も書かれている。

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