進めデリーへ
日本占領下のビルマと英植民地インドが接するジャングル地帯では戦争終盤までたいした展開は起こらず、アジアの英陸軍は「忘れられた軍隊」と呼ばれていた。しかし、ウィンゲート准将率いるゲリラ部隊が日本軍後方を撹乱した事から事態は変化。ジャングルでの移動が可能な事を知った日本陸軍は、正規部隊によるインドへの侵攻を計画、陸軍2個師団とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍が1944年(昭和19年)3月、コヒマ、インパール方面をめざして出撃した。1943年(昭和18年)11月には東京で大東亜会議が開催され、ビルマ、タイ、フィリピン、満州国、南京政府の親日政権代表に交じって、自由インド臨時政府主席のボースが演説した。「たとえ、他のどの国が英国を許したとしても、インド人が許す事はない」。シンガポールでインド人志願兵を前にボースは叫んだ。「進め、デリーへ」。
国境を越えたインド兵達は祖国の大地に接吻した。しかし、作戦は悲惨な大敗を招き、チンドウィン川は飢えと疾病に苦しみながら敗走した日本兵の死体で溢れた。これが、小説『ビルマの竪琴』の背景である。敗戦に際して、ボースはソ連に亡命して独立運動を続けようとしたが、台湾で搭乗機が離陸に失敗し、死亡した。その遺骨は杉並の蓮光寺にある。
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杉並・蓮光寺に立つチャンドラ・ボースの胸像。蓮光寺に仮安置されたボースの遺骨は何度かインドへ移されようとしたが、ガンジーを継承するインド政府は受け取りを拒否、今も蓮光寺は命日の8月18日に慰霊祭を行っている。政府の姿勢とは異なり、インド民衆のボースへの尊敬は高く、ニューデリーの像に花が絶える日はない。 |
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