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生命情報科学の源流

第6回 1945年:最終秘密兵器

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ウィルス・ハウス

 1939年(昭和14年)にハイゼンベルクが書いた文書をもって、ドイツ側の原爆開発は出発した。1941年(昭和16年)に原子炉の前段階にあたるものをライプチッヒ大学に作り、ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所と生物学研究所の間に実験室が作られた(ウィルス・ハウス)。ハイゼンベルク夫人は言う「『もし、当局が原爆製造を強要したらどうなるの?』と聞いたとき、主人は『ムリだね。それだけの資金も材料もない。だいたい、当局は長期の開発計画全体を禁じている』」。

 1945年(昭和20年)5月にドイツが降伏すると、ハイゼンベルクやハーン達は、ケンブリッジ郊外の館(ファーム・ホール)に囚われ、その会話は盗聴された。広島への原爆投下が知らされたとき、ハイゼンベルクは「ウランという言葉を使っていないから、原爆とは無関係な化学爆弾だろう」。ドイツの原爆開発を調査した米アルソス機関のハウトスミットは言う「ハイゼンベルクは二重に無能だった。原子炉と小型原爆の区別をつけず、プルトニウムにも思い至らなかった」。ただし、ハイゼンベルクが「もし原爆ができたならサッカーボールぐらいの大きさになる」と語ったとの証言もある。

※演劇『コペンハーゲン』
イギリスのマイケル・フレインの脚本になるこの新版は1998年(平成10年)のロンドン初演の後、日本では2002年(平成14年)に初演され、2007年(平成19年)、新国立劇場で再上演された。登場人物はボーア夫妻とハイゼンベルクの3人だけ。1941年(昭和16年)秋、ドイツ占領下のコペンハーゲンに、ユダヤ人を母に持つボーアを、勝利者ドイツの文化施設の一員としてハイゼンべルクが訪問し、原爆(あるいは原子炉?)の開発にたずさわっている事実を告げる。この瞬間を、今や死者となった3人は、繰り返し繰り返し再現し、真実を明らかにしようとする。この時にボーアの前でハイゼンベルクが描いてみせたスケッチが原子炉だったとされる事から、ハイゼンベルクを批判する人々には、彼が原爆と原子炉を明確に区別していなかった事の根拠とされ、擁護する人々には彼が核の平和利用しか考えていなかった事の根拠とされる。フレインの脚本はハイゼンベルクの『部分と全体』等を検証した上で非常に良く書かれているが、オリジナルではなく、1960年代に書かれたイーブ・ジャミアックの二幕劇『第八の大罪』の焼き直しである。ジャミアックの原作では3人は死人に想定されてはいなかった。なにしろハイゼンベルクはまだ生きていたのだから。

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