スリランカでの出会い
英空軍で航空機搭載用レーダーの開発に従事していたジョン・ケンドリューは、1943年(昭和18年)スリランカへ赴任した。ここでケンドリューが出会った人物、それは、生物物理学者デスモンド・バナール(1943年当時42歳前後)である。バナールは、マウントバッテン卿の顧問として、統合幕僚本部でオペレーションズ・リサーチを研究していたが、南東アジア連合軍司令官となったマウントバッテン卿を追って、マウントバッテンがデリーから司令部を移していたスリランカのカンディへと移動した。
11月9日、ケンドリューとバナールは、海軍の水中爆雷を使って、ジャングルを移動する日本兵を爆撃する実験のため、袋に入れたネズミを持ってジャングルへ入った。仏教美術にはじまって、鉱物、粘土の物性からセミの祖先に至るまでバナールの知識は尽きなかった。戦争のため研究室をはなれ、次に何をすべきかわからなかった若きケンドリューに、バナールの「生物物理学を目指せ」というメッセージがこだまする。バナールとの出会いが、ケンドリューの運命を決めた。バナールはブラッグ(父)からロンドンでX線結晶学を学んだ後、ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所で生物関連試料を研究した。バナールがロンドン大学バークベック校へと移った後、彼の学生、オーストリア出身のマックス・ペルーツ(1943年当時29歳)がケンブリッジの研究室を引き継いだ。ペルーツを終世、支持し助け続けたのはキャベンディッシュ研究所の新所長となったブラッグ(子)。ボーアとは独立に、「光(X線)と生命」を研究する新学派が形成されつつあった。もっともブラッグ(父)は、1942年(昭和17年)にスリランカへ行く直前のバナールのBBC講演「生命の起源」を司会した直後に亡くなっていた。
バナールはケンドリューにペルーツのグループに合流するよう勧めた。「生命の神秘の根源は蛋白質にある」。ケンドリューは言う。「軍務で米国に行くチャンスがあり、著名な物理化学者のポーリングが生物学に転向しつつあるのを知った。けれども、バナールの影響の方がよほど大きかった」。
スリランカに移動する前、マウントバッテン卿とバナールは氷上空母の建造に加担していた。登山家だったペルーツは、アルプスで氷河の構造を調べた経験があり、敵性外国人として収容されていたペルーツをカナダでの秘密計画に抜擢したのだ。Uボートが遊弋する大西洋を渡る船舶により、多数の航空機が米国から英国へと輸送された。北大西洋上に氷でできた空母(プラットホーム)を浮かべれば、航空機は自前で移動する事ができる。パルプを混ぜた氷、パイクリートは完成したが、計画は途中放棄された。もはやUボートは脅威ではなくなったのだ。1943年(昭和18年)5月、チャーチルとルーズベルトは、シチリア陥落以降の欧州作戦とインド洋からの対日攻勢をニューヨークのスターテン島で議論した。白熱した議論の休憩中に銃声がひびいた。撃ち合いになったのでは、と人々がかけつけると、氷上空母建造を主張するマウントバッテン卿がパイクリートに撃ち込んでみせた弾丸が跳ね返り、米提督のズボンに命中したところだった。マウントバッテンが南東アジア連合軍司令官となったのは、ベンガル湾を越える対日上陸攻撃(ドラキュラ作戦)のためだった。この時、パイクリートと並行して開発が進められた氷上移動車の上陸戦への転用を検討している。
後にペルーツは回想する。「1945年(昭和20年)秋、空軍中佐の制服をスマートに着こなした青年が現れて、『蛋白質の研究で博士号をとりたい』と言った」。2年後、2人は分子生物学研究ユニットを名乗り、そして8年後の1953年(昭和28年)、彼らの研究室でDNAの立体構造が解明される事になる。
最近、英国で出版されたバナールの伝記。以前に出版されたゴールドスミスの伝記(共産党関連書籍の出版社が翻訳)とは対照的に分子生物学の曽祖父としてのバナールに焦点を当てている。 |
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