東京大空襲
1944年(昭和19年)7月、守備隊が玉砕し、サイパン島は米軍の手に落ちた。マリアナ諸島を基地として米軍は長距離爆撃機部隊を編成した。B29は、1930年代末に試作されたXB29を基に開発された戦略重爆撃機で、あらゆる点で画期的な機体だった。高空を飛ぶ事を前提とする機内は加圧され、飛行はもちろん爆撃照準すらレーダーで制御されていた。
1944年(昭和19年)秋、江崎玲於奈が東京帝国大学に入学したとき、3年制の大学はすでに2年半に短縮され、朝8時からの講義で忙しかった。文科系学生は学徒出陣して不在、講義は安田講堂前方の法文25番という良い教室で行われた。江崎達1年生に数学を教えたのは小平邦彦である。
この頃、安田講堂上空を単機で偵察に飛ぶB29が25番教室から見えた。そして11月、B29約70機が東京を初爆撃した。理学部1号館の地下室に避難した小平は編隊を見上げた。「透明な青空、1万m上空を飛ぶ銀色のB29は実に美しく、薄暗い地下室に潜む我々と同じ人間が作ったものには見えなかった」。1945年(昭和20年)3月9日夜、東京はB29のさらなる大編隊に襲われた。破壊の凄まじさを経験した江崎は、翌朝、いつもと変わらぬ調子の「物理実験学第一」のノートを懸命にとり、「東大アカデミズムの存在感が身に伝わった」。付近の書店までが焼夷弾攻撃で消失したが不思議にも東大構内は無傷で、「占領後、米軍がオフィスに使おうとしている」という噂がたつ。1945年(昭和20年)3月に硫黄島が陥落すると、ここから米戦闘機がB29の護衛につくようになっていた。
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