生命情報科学の源流のトップへ WEB連載

生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

書籍関連・映画のご紹介

文/産業技術総合研究所DNA情報科学研究グループ長鈴木 理

1953年(昭和28年)、渡辺格は貨物船に乗って太平洋をわたり、サンフランシスコへと向かった。ウイルス研究所でファージの増殖機構を研究するためである。しかし、革新的なDNA研究がすでに英国で進行していた。デルブリュックの弟子である米国人ワトソンと英国人物理学者クリックによってである。ワトソンを英国へと向かわせたのは、ナポリで聞いたウィルキンスの講演だった。

1953年(昭和28年)1月、カリフォルニア大学バークレー校ウイルス研究所に赴任するため、サンフランシスコに向けて出港する貨物船フルダ・マースク号上の渡辺格(写真左)。

『生命とは何か?』

 1951年(昭和26年)5月、ナポリの臨海実験所で開かれた生物物理学の研究会でモーリス・ウィルキンスが使った“DNAの結晶”という言葉にジェームズ・ワトソンは驚愕した。「シュレーディンガーが『生命とは何か?』に残した、遺伝子とはどんなものかという予言に一致する!」。デルブリュックは、ファージ・グループの若手二人、ガンサー・ステント(28歳前後)とワトソン(23歳前後)を“DNAの化学”を学ぶためにコペンハーゲンに出していたのである。戦前のカリフォルニア工大でデルブリュックがカルカーに会った時、二人はボーアの話でもりあがったのかもしれない。しかしカルカーの専門はATPの代謝で、DNA立体構造の理解にはあまり役立たなかった。

 『生命とは何か?』をよく読めば、デルブリュック同様、化学が苦手なシュレーディンガーが「結晶」を「固体」あるいは「高分子」という程度の意味に使っていた事がわかる。ウィルキンスが使った“結晶”と同じではなかったのだ。しかし、ウィルキンスもまた、シュレーディンガーの本の影響を強く受けていた。ウィルキンスはニュージーランド生まれ。戦争中、まずはレーダーの表示装置(スクリーン)を研究し、次に、イギリス・チームの一員として、カリフォルニアでのウラニウム濃縮に従事した。広島への原爆投下のニュースを聞いた時、最初の無邪気な勝利感が、激しい罪悪感へと急転した過程を書き残している。米国人女性との結婚が破綻し、生まれた子どもに会うことすらできない傷心の帰英。シュレーディンガーの本を読み、「“死”ではなく生命が知りたい。非周期性結晶というのは、レーダースクリーンの発光結晶(液晶の原型)みたいなものか?」。

書籍関連・映画のご紹介

BACK 1   2   3   4   5   6   7   8   9   10   11 NEXT

生命情報科学の源流のトップへ このページのトップへ