ステントのファージ教会との出会い
コールド・スプリング・ハーバーでデルブリュック達がファージ講習会をはじめたのは1945年(昭和20年)。ファージ研究を世界に広めるための“布教活動”だった。1948年(昭和23年)夏、ここでステントはルリアの学生だったワトソンに出会った。ワトソンもまたシュレーディンガーの著書に影響され、ルリアがデルブリュックの共同研究者と知ってその学生となったのだ。ステントがデルブリュックに初めて会った翌日、ルリアを訪れたデルブリュックにワトソンは初めて会っていた。講習会が終わるまでには、ステントは一人前のファージ研究者になったと感じていた。それだけではない。「“教会”内部の人間以外には耳を貸す必要がないというファージ・グループのうぬぼれも、立派に身に着けていた」。
コースの終わりに一連の儀式を行うのがデルブリュックの習慣だった。「ムッソリーニの復讐」というあだ名の怪しげな赤ワインを大量に飲みながら、卒業生は自らデザインした卒業ローブ(海賊や悪魔の格好)を着て一人ずつ“法王”に謁見する。そして最後に「ピペット壊しの名人」などといったふざけた学位の書かれた証書を拝受した。海水パンツにバスローブ、月桂樹の冠といういでたちのステントが授与式にのぞもうとしたところ、突然、ホールの照明が消えた。ベッドシーツにくるまれた人物があらわれて、「我はデルブリュックの幽霊である」。酔いがまわったステントはデルブリュック本人かと思ったが、まだ大学院生のワトソンだった。ステントがもらった学位は「マスター・メカニック」。おんぼろ自転車の修理に実験と同じくらい時間を費やした事へのからかいだった。
パサデナでステントにあたえられたテーマは、アミノ酸(トリプトファン)によって“活性化”されないと大腸菌にとりつけないファージの研究だった。デルブリュックはそこに「従来の物理法則では説明できない何かがある」と期待し、微生物学者と共に働くように言った。「お互いにないものを補いあうんだ。ライ麦パンとレバーソーセージみたいにね」。彼の名はエリー・ウォルマン、亡くなったウォルマン夫妻の息子はツールーズ郊外の村に潜伏して戦争を生き延び、助けてくれた娘と結婚していたのである。
研究室の他のメンバーは、デルブリュックがいう「物理法則を補う何か」という議論をまじめにうけとらなかったが、ステントだけはこれを真剣にうけとめた。しかしデルブリュックの期待に反して、ステントとエリー・ウォルマンは、先の過程が当たり前の物理化学で説明できる事を結論した。デルブリュックはステントに「コペンハーゲンのカルカーのところへワトソンとともに行って、DNAの化学を勉強する気はないか」と尋ねた。デルブリュックが化学を嫌っているのをよく知っていたから、「もしデルブリュックがワトソンを高く評価していることを知らなかったなら、2流の烙印をおされたのかと誤解しただろう」とステント。ある朝、机の上に「デンマーク語要約」という本があり、巻頭の余白に「コペンハーゲン精神を忘れるな!」とのデルブリュックの文字。コペンハーゲン行きのためのフェローシップが通ったのだとステントは悟った。「有名なビールに北欧女性、“北のベニス”の歌が待ちきれません」とステントが言うと、デルブリュックは「何を勘違いしとるのかね。“コペンハーゲン精神”はボーアが原子物理学者たちに浸透させた友好と協力の精神だ。カルカーの研究室からすぐのところにボーアの理論物理学研究所がある。そこでコペンハーゲン精神の源泉を味わって欲しい」。
ステントがコペンハーゲンに行く直前、デルブリュックは“ウイルス1950”と彼が呼ぶ会を組織し、様々なウイルスの研究者を40人ほど招いた。デルブリュックは全てのウイルスを総合的に理解する枠組みを作ろうとしたのだが、成功したとは言えなかった。招待者の中に、タバコ・モザイク・ウイルスを結晶化したスタンレーが含まれていたことから、ステントは知己を得、翌年、国際小児麻痺会議に出席するためにコペンハーゲンを訪れたスタンレーと再会した。場所はボーア宅、きらめく名士の中でも、たまたまスタンレーの隣にステントは座ったのである。ステントはスタンレーに「新しいウイルス研究所で働くスタッフを集めておられると聞いたのですが」。「バークレーに手紙をよこしなさい。履歴書を添えてね」とスタンレー。ステントが手紙を出して数週間後、最下位の講師相当の待遇で迎えるとの返事が届いた。バークレーに移ってからなぜ自分が雇われたのかステントは知った。「ニールス・ボーアと親しい青年だと誤解して、“そんなのが一人、研究所にいても、世間体が悪くはなかろう”と考えたんだよ」とステント。
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コペンハーゲンのカルカーの研究室での集合写真。ハーマン・カルカー(前列左端)、ワトソン(後列右から2人目)とステント(後列左端)。 |
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