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生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

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ケンブリッジのカウボーイ

 ペルーツは言う。「1951年(昭和26年)秋、角刈りでギョロ眼、変わった風体の人物がやってきて、“こんちわ”もそこそこに“ここで働かせてくれるのかなあ?” ああ、ルリアから聞いていたワトソンだな」。ウィルキンスがいるロンドンに行く事を切望したワトソンは、ナポリで妹をウィルキンスにけしかけようとまでした。しかしウィルキンスには、ワトソンが使う“ファージ”や“遺伝”といった言葉がほとんど通じなかった。結局、ロンドン大学には受け入れてもらえず、元の先生のルリアがケンドリューを知っていた事から、せめてX線結晶学を勉強しようとケンブリッジにやってきたのである。自伝の中でルリアはケンドリューをX線結晶学者ではなく“分光学者”と表現している。あるいは“光と生命”を中心とする世界観からだろうか?

 キャベンディッシュ研究所でワトソン(23歳前後)にあてがわれた部屋には、すでにクリック(35歳前後)がいた。学位論文のためにタンパク質の研究に集中しようとするクリックを無理矢理ひきずりこんで、ワトソンは自らのゴール、DNAをめざして突進しはじめる。ワトソン自身はたいして物理学を理解しなかったにも関わらず、彼はいつも物理学者を友達にもとうとした。ワトソンは告白する。「1948年(昭和23年)にコールド・スプリング・ハーバーで会って以来、デルブリュックに憧れた。彼のように明晰に議論したい、彼のような奥さんを持ちたいと」。そんなワトソンの面倒を、クリックは弟のように見はじめる。クリックはタンパク質のαらせん構造やらせん構造からの回折の理論に詳しく、これはDNA繊維結晶にそのまま適用できた。また、同じ歳のウィルキンスとは知り合いで、研究の進捗状況を尋ねることもできた。ワトソンにとってこれほど頼りになる兄貴はいなかっただろう。

1952年(昭和27年)当時のケンブリッジ大学・キャベンディッシュ研究所の所員たち。最前列中央の矢印が所長のブラッグ(子)。2列目右から7番目がケンドリュー。左上に拡大表示したところに、ワトソン(左)とクリック(右)がいる。

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