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生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

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ゴールデン・ゲート・ブリッジ

 超遠心器製作当時から、渡辺はカリフォルニア大学バークレー校のスタンレーと連絡をとっていた。この頃、スタンレーが結晶化したタバコ・モザイク・ウイルスを材料のひとつにしていたからである。1952年(昭和27年)、スタンレーから「こっちに来ないか、生活費ぐらいは面倒みよう」。なんとか渡航費を工面して、やっと渡米を決意した。

 この年の4月、朝鮮戦争を背景に日本は名ばかりの独立を回復し、吉田茂が戦後、初代の首相に就任した。その6月、横浜からチャイナ・トランスポート社の貨物船に長女の手をひいて乗り込んだのは、しかし渡辺ではなく、新設の東京都立大学の教授になっていた團勝磨(47歳)だった。途中ハワイで上陸し、親切な日系移民が用意してくれた宿に泊まっている間に、予定よりも早く貨物船は出港してしまった。埠頭には、團の荷物とハワイから先の運賃を返済する小切手。やむなく、ジーン夫人が渡してくれた“闇ドル”から95ドルの大金を支払って、サンフランシスコまでの二人分の航空券を購入した。かなり後まで、日本人が持ち出せる外貨は制限されていて、高値でドルを円と交換する“商売”が繁盛していたのである。

 1953年(昭和28年)1月、こんどは渡辺格(36歳)が貨物船フルダ・マースク号に乗り、荒れる冬の北太平洋をサンフランシスコへと向かった。夜半にゴールデン・ゲートをくぐると、前方の青白い丘に多数の車のヘッドライトが見えた。こうして、渡辺はスタンレーのために新設されたカリフォルニア大学バークレー校ウイルス研究所の研究員として着任したのである。ウイルス研究所はローレンス達の放射線科学研究所からも遠くない場所にあった。ここはかつて東部の大学から来た二人の青年、ローレンスとオッペンハイマーが出会った場所でもあったのだ。裕福なユダヤ人家庭に育ったオッペンハイマーは、ここで貧者の暮らしや共産主義、さらにはドイツでのユダヤ人迫害という現実に出会った。一方、貧しい家庭に生まれたローレンスは、サイクロトロン建設のために金持ちのサポーター達とつきあうようになった。この場所で、渡辺はバクテリオ・ファージの増殖機構の研究を開始するつもりだった。意外にも、その数か月前にガンサー・ステント(29歳)が来ていて、すでに一歩踏み出していた。出会うなり、ステントは「お前のことはデルブリュックから聞いているよ」。

カリフォルニア大学バ-クレ-校ウイルス研究所での集合写真。第1列中央にスタンレー博士、2列目右から3番目にステント、3列目左から3番目に渡辺格が写っている。

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