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生命情報科学の源流

第9回 1951年:ナポリの生命の糸

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3か年計画

 東京大学・輻射線化学研究所(後、改組により東大・理工学研究所の一部)助教授の渡辺格(31歳前後)は、1947年(昭和22年)ごろ、まずはDNAを抽出、精製する技術を学び、DNAの物理化学的性質を解明する技術を自らのものにした上で、1950年(昭和25年)からウイルス増殖の研究を開始しようと計画した。第一段階の達成のため、同じ研究所の安藤鋭郎教授が使っていたニシンの精子に注目。欧米ではもっぱら子牛の胸腺(フランス料理の食材)などからDNAが抽出されていたが、敗戦直後の日本で簡単に手に入るわけもない。タンパク質アミノ酸配列の存在を信じた安藤は、ほとんど一種類のアミノ酸、アルギニンからなるニシン精子のタンパク質、プロタミンを対象に選んで、配列を決定しようとした。北海道から大量にニシン精子を集める安藤に便乗して、渡辺はニシン精子からDNAを抽出した。DNAを発見したのはスイスの化学者、フリードリッヒ・ミーシャー。最初はヒトの膿から(病院の包帯を使用)、次にはライン川で捕れるマスの精子からDNAを抽出したから、ニシンとは良い着眼だった。

 次にDNAの物理化学的性質を解明するために、渡辺は超遠心器を作ろうとした。超遠心器は、戦時中、ウラン分離をめざしたF研究の荒勝教授達が計画した装置でもあった。水島三一郎教授の知り合い筋の東京工大・精密機械研究所の谷口修助教授が設計し、日立が製作した。輻射研助手の野田春彦は、1948年(昭和23年)末に第1号機が完成した時、「空冷タービン式で、すごい音がした」。これ以外にも、分子の大きさや形を議論する技術を渡辺達は導入し、こういった分析技術を戦前に確立したスウェーデンの地名に因んで“小ウプサラ学派”を自負した。しかしやがて、米国スピンコ社が超遠心器を市販するようになると、独自色も薄まる運命にあった。

 この頃、いささか遅れて、渡辺はデルブリュック達のファージ研究の進展を知った。「原子物理学から一挙にバクテリオ・ファージの研究に飛び込んだラジカルさに圧倒された」と渡辺。デルブリュックの研究スタイルに心酔した渡辺は、次に対象とするウイルスをファージと決めた。1950年(昭和25年)、渡辺は、デルブリュック(44歳前後)から大腸菌とファージを郵便で譲り受け、第2ステージ突入への準備ができた。デルブリュックの伝記には、戦争中に彼の研究に参加しようとした日本人がいたと記されているが、そんな事が可能だったとは素直には考えられず、あるいは敗戦直後に連絡をとった渡辺の事だったのかもしれない。「デルブリュックは遺伝子の“化学”を完全に無視している。いつか自分の出番がやってくるに違いない」と渡辺は思った。

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