生命の糸
ウィルキンスがDNAの研究を始めたのは、1950年(昭和25年)、スイスから訪英したシグナー教授が講演会でDNA試料を配ったのがきっかけだった。羊毛のような繊維の中では、糸の方向に規則正しく単位が並んでいるが、糸がより合わさった“横”方向には規則性がない(一次元の結晶、これがつまり繊維配向試料)。しかしこういった材料をバナールが研究する事はなかった。ロンドンでブラッグ(父)から結晶学を学んだときの同僚だったアストベリーとの間に結んだ“紳士協定”--「繊維配向試料はアストベリーに、結晶はバナールに」に、忠実だったからである。しかし、ウィルキンスはこんな紳士協定に関与する立場になかった。
乾燥したDNAは白く、ティッシュペーパーのくずのように見える。細いガラス棒2本を近づけ、その間に一滴、水をたらし、乾燥したDNAのかけらを置くと、水を吸って溶けていく。水が蒸発してほどよく乾燥し粘性が上がったところで、ガラス棒を徐々に離すと、DNAが繊維状に伸びる(精製の際に切断されなければDNAは非常に長く、人の細胞ひとつには全長3メートルに達するDNAが収納されている)。シグナーのDNAを使ってウィルキンスたちが撮影したX線回折写真(A型)は斑点状できわめて“結晶的”だった。この事実を説明しようとしてウィルキンスは“結晶”という言葉を使ったのだろう。
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左)1956年(昭和31年)ころ撮影されたロザリンド・フランクリンのポートレイト。右)ウィルキンスたちが撮影したA型DNAのX線回折写真(上)とフランクリンが撮影したB型DNAの回折写真 |
1951年(昭和26年)12月、この路線をさらに発展させるべく、パリにいたロザリンド・フランクリンをリクルートしようとして、ウィルキンスの上司のランダルは彼女に手紙を書いている。「DNA関係はあなたの他には大学院生だけです」。なぜかウィルキンスの存在を明示しなかったこの手紙が、フランクリンとウィルキンスの間に火種を残す。フランクリンは、ウィルキンスから渡されたシグナーのDNAを使ってB型DNA(完全に水和、つまり、水中と同じ状態)の回折写真を撮影した。フランクリンが「自分はあなたから独立した研究者だ」と主張して二人の関係がこじれると、ウィルキンスはフランクリンからシグナーのDNAをとりかえせなくなる。
試料に入射するX線が最大になるように、X線カメラを調整するウィルキンス。装置は、1950年代にキングズ・カレッジの工作室で組み立てられたもののひとつ。 |
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